武力メモ CQC

CQC(Close Quarters Combat:近接格闘)は、軍隊警察において近距離での戦闘を指す言葉である[1]。主に、個々の兵士が敵と接触、もしくは接触寸前の極めて近い距離に接近した状況を想定する。なお、"Close"は「近い」を意味する形容詞「クロース」であり「閉じる」を意味する動詞「クローズ」とは別語である。

類似の概念にCQB(Close Quarters Battle:近接戦闘)があり、これは、おおよそ分隊以上の人数が約25メートル以下で敵と遭遇した状況を対象とする。「CQC/CQB」または「CQB/CQC」と総称されることもあり、CQC技術がCQB技術の一つに含められることもある。

銃火器を射撃することが困難な状況であるため、銃剣術徒手格闘のほか、ナイフや打撃武器などありあわせの道具を利用した武器を利用した技術に重点が置かれる。

テロなどの脅威が増す情勢下、CQBの一部として、ヨーロッパを中心に世界各国の警察、軍隊などにCQC戦術が重要視されるようになっている。

 

歴史

イギリスウィリアム・フェアバーン柔術中国武術などを基に編み出した「フェアバーン・システム」や「無音殺傷」(Silent Killing)は、CQCに特化した最初の格闘術であるが、当時はCQCといった呼び方は無かった。

フェアバーンが教えた技術は、その後、彼の弟子や各国のなどにおいて改良され、現在に至っている。また、フェアバーンの弟子であるレックス・アップルゲートは、CQCの世界的権威とされ、自身の技術を各国の軍や警察で指導した。

フェアバーン・システム以外にも、各国はそれぞれCQCにおける戦闘技術を研究している。

武力メモ マーシャルアーツ

マーシャルアーツ(martial arts)は、日本語の「武芸」を英訳した言葉。文字通り、「武の」(martial)「芸」(arts)のことを指す。これが転じて、レスリングボクシングといった西洋文化に根を持つ術技体系以外の拳法格闘技全般を指す言葉として用いられる。1918年に日本人の手で発行された和英辞典「武信和英大辞典(国会図書館蔵書)」で初めて使用され、その後西洋で一般に広まった。現在、海外(欧米)で「マーシャルアーツ」が、単に格闘技を指す言葉ではなく、オリエンタリズムと強く結びついた東洋の格闘技と関連付けられることが多いのはこのためである。ボクシングフェンシング等は「マーシャルアーツ」[1]とは呼ばれない。

また、近年、“マーシャルアーツ”と名のついた同様のエクササイズが多数存在しており、これらの一部愛好者の間で「マーシャルアーツ=格闘エクササイズ」と認識されているが、これも誤りである。これは単に、「リーボック・マーシャルアーツ」という武道の動きを導入したエアロビクス・エクササイズが、あくまで、“リーボック流武道”という名前で売り出したに過ぎず、これら一連の武道・格闘技系エクササイズの呼称ではない。

 

日本における「マーシャルアーツ」に対する認識[編集]

アメリカで行われる全米プロ空手フルコンタクト空手、アメリカンキックボクシング(グローブをつけてパンチと蹴りを使って戦うが、キックボクシングと異なり肘打ち・膝蹴り・ローキック・首相撲が無い)を日本では「マーシャルアーツ」と呼ぶことがある。これは、アメリカのプロ空手チャンピオンのベニー・ユキーデが初来日した際に、記者会見にて、“私はフルコンタクトで戦うマーシャルアーティスト(武道家)だ。”と答えたため[2]

また、ゲームなどのフィクション(特に対戦型格闘ゲーム)で格闘スタイルとしてマーシャルアーツとある場合、アメリカ軍隊格闘術のことを指していることがあり、例として『ストリートファイターII』のガイルや『飛龍の拳』のワイラー、ケイトなどが挙げられる。この現象は劇画作家で当時の格闘技界のフィクサー的存在だった梶原一騎が、自身の作品『四角いジャングル』において、“マーシャルアーツとは米軍が使う格闘術である”と解説し、そしてこれらの作品で育った世代が今日の格闘ゲームの隆盛を築いていった。かくして英語では単なる普通名詞に過ぎない「martial arts(マーシャルアーツ)」という単語が全米プロ空手などを指すだけでなく、このような誤解をも生むに至っている。

武力メモ 日本の白兵戦

中世-近世日本では、歩兵として農閑期の農民を徴用していたため、武士に比べて白兵戦の戦果を期待できず、遠戦が主体だったという説がある[1][2]。しかし、実際には弓矢は鍛錬が必要な専門職であり、投石は限定的、鉄砲は高価であったため、正しいとは言い難い。当時は、ほとんどのは白兵戦に備えてなどの白兵武器を携帯していた。

戊辰戦争後、明治になって四民平等の世になり、徴兵制によって武士階級以外の人員で軍隊が構成されるようになると、この傾向が強まったとされる。

西南戦争田原坂の戦いでは、白兵戦能力に秀でた西郷軍に対抗できなかった政府が、警視隊の中から選抜した「抜刀隊」(機動隊の先祖)を臨時編成し、投入した。この活躍は、維新後廃れていた剣術の再評価(警視流制定など)に繋がった。

日露戦争における旅順攻囲戦奉天会戦で白兵戦に苦戦した日本軍[3]は、明治初期にフランスプロイセンの操典を翻訳して作られた陸戦の綱領『歩兵操典』を、1909年に改訂した。この操典の綱領では「戦闘に最終の決を与えるのは銃剣突撃とす」としていた。

当時の欧州先進各国陸軍も、敵軍殲滅のための包囲機会を形成するのに敵陣の突破が必要である以上、白兵突撃は必要不可欠であるとしていた[4]。これは、第一次世界大戦における砲の集中使用と機関銃の大量配備によって否定されたが、火戦の後、最終的に白兵戦で敵陣を殲滅するという考え方は残った。日本もこの状勢から、第一次大戦におけるドイツ浸透戦術を取り入れ、砲、機関銃による十分な攻撃の後の白兵突撃戦術を発展させ、その後の満洲事変日中戦争において戦果をあげた。

大正-昭和初期にかけて、陸軍戸山学校は、複数の剣術家の助言を得ながら近代戦に適合する軍刀術を制定した(この軍刀術は、太平洋戦争後、戸山流居合道となった)。

日本軍の銃剣術は優秀で、兵士の練度も高く、太平洋戦争初期の自動小銃が広まっていない段階では米兵に対して優位に立ったが、米軍が反攻に転じたガダルカナル島の戦い以降は、火力に優れるアメリカ軍に対して白兵突撃はほぼ無力であった。補給の停滞で重火器の欠乏した南方戦線においては、敵に対して正面から強引に斬り込む夜間の白兵突撃しか抵抗手段がなく、部隊ごと壊滅するといった損害を被った。1942年以降、米軍にはM1ガーランドトンプソン・サブマシンガンBARが普及したのに対し、日本軍小銃ボルトアクション式三八式歩兵銃九九式短小銃が中心で、短機関銃はおろか半自動銃さえ普及していなかったことも苦戦の原因となった。

戦後、自衛隊では、自衛隊格闘武器技術によって白兵戦への対応を行っている。64式小銃に装着する64式銃剣の全長が長い(41cm)のは、日本軍の三十年式銃剣(51cm)と、当時、陸上自衛隊で採用していた7.62mm小銃M1M4銃剣の刃長の中間としたためで、現在の89式小銃銃剣は標準的な長さ(27cm)となっている。

陸上自衛隊の、一般幹部自衛官礼装では、国際儀礼上必要がある場合などに限って佩刀を認めている。

武力メモ 白兵戦についての概要

白兵戦(はくへいせん、close combat)は、刀剣などの近接戦闘用の武器を用いた戦闘のこと。現代では、近距離での銃撃戦と格闘戦も一体のものとして捉えており、距離によってCQBCQCとも分類される。

 

近代における白兵戦[編集]

 
日露戦争での、日本陸軍ロシア軍の白兵戦を描いたイラスト(1904年)

拳銃手榴弾を用いての近距離戦闘も白兵戦に含める場合がある。また、ゲリラ戦においては、火器弾薬の不足、あるいは敵に気付かれないようを出したくないなどの理由から、白兵戦が選択されることもある。

近代戦における白兵戦は、銃撃の後の最終的な突撃や、塹壕内における戦闘の際に行われることが多い。歩兵の主力ボルトアクション式の時代までは、装填間隔の長さから至近距離で複数の敵と銃で渡り合えない限界を、銃剣格闘などで補っていた。

第一次世界大戦機関銃が大々的に使用され、見通しのよい場所は火力で制圧されてしまうようになった。従来行われていた正面からの銃剣突撃は困難になり、騎兵突撃はより困難になった。これにより、歩兵の白兵戦は着剣小銃で槍衾をつくることから、塹壕や室内などの出会い頭の戦闘を行うことへと変わった。第一次世界大戦では塹壕戦となり、上まで届くような長い着剣小銃では取り回しが悪く、拳銃は扱いが難しかったため、代わってスコップナイフでの斬り合い刺し合いとなり、果てはヘルメットや、手製の棍棒で殴り合うことすら珍しくなかった。また、トレンチナイフという専用の武器まで作られた。しかし、大戦末期には近接戦闘に特化した短機関銃が実用化され、近接戦闘においても銃火器が優位を大きくした。続く第二次世界大戦末期には突撃銃(アサルトライフル)が実用化され、歩兵銃も近接戦闘能力を高めたため、白兵戦はごく限定的なものとなった。

近年の対テロ作戦で、近接戦闘の機会が再び増加したが、これも旧来の白兵戦ではなく、建物内の犯人を的確に射殺する事がメインであり、これに適した小型の火器サプレッサーの導入が進んでいる。

格闘術の訓練を廃止した軍隊も存在するが、接近戦への対応を目的とした格闘術自体は無くなっていない。イギリス軍では、第二次大戦中に格闘術フェアバーン・システムを訓練しており、フォークランド戦争イラク戦争では銃剣突撃を実施した。アメリカ陸軍での格闘術訓練は減少しているが、アメリカ海兵隊は、冷戦期にフィリピン武術「カリ」に伝わる棒術の技を基にした銃剣術を新たに制定し、現在でも兵科を問わず銃剣術や格闘術の訓練を実施している。イスラエルでは、格闘術「クラヴ・マガ」が特殊部隊警察の対テロリスト部隊で訓練されている。

軍の予算が不十分な場合、低予算でも訓練可能な白兵戦が訓練項目として注目される場合もあり、隊員の戦意高揚にも役立つといわれる。

本来の定義からは外れるが、現代戦では大砲ミサイルなどによる距離を置いた砲撃戦と対比して(特に航空機艦艇などの乗員がやむなく拳銃や軽機関銃で)、近距離の銃撃戦を行う場合などにも「白兵戦」という言葉が使われることがある。

また、珍しい場合では珊瑚海海戦において大日本帝国海軍航空母艦翔鶴の搭載機が米空母に着艦しかけるという事態が起きており、米空母側では何の迷いもなく着艦コースに入る敵機にパニックになったらしく、副長が白兵戦用意の号令をかけている。無論、空母でこんな命令が出されたのはこれが史上唯一である。 このようなことが起きた原因としては、パイロットの練度のほか、長時間に及ぶ飛行と戦闘による疲労、夕暮れ時で見えづらかった事、翔鶴型航空母艦ヨークタウン級航空母艦の大きさがほぼ同じ事等が考えられる。

武力メモ 人海戦術について(事例)

第一次世界大戦[編集]

極僅かな機関銃陣地が、多数の歩兵の正面からの突撃を撃退できることは、第一次世界大戦で明らかになった。以後、上記の「一般的な人海戦術の理解」で描かれた戦術が成功した例はなく、撃破された例は多数ある。かわって、この大戦で編み出された歩兵浸透戦術が、以後の歩兵攻撃の常道になった。

中国軍の山岳浸透戦略[編集]

1950年11月朝鮮戦争に参加した中国の人民志願軍は、北朝鮮軍を追撃して北上する国連軍アメリカ軍主体)に対し、軽装備の歩兵を山岳丘陵地帯から迂回させる戦術を大規模に適用した。数日分の食糧を携えて山野を越える中国軍の機動は、道路輸送に完全に依存していた国連軍にとって予想外であり、戦略的奇襲となった。各所で側面や後方を脅かされたアメリカ軍は、自分たちが踏み込めない山野が中国兵で埋め尽くされていると感じ、敗走に移った。夜間行軍を伴う山岳機動を大規模に実施して成功したのは、第2次大戦後、中国大陸で武装解除した日本軍将校を招聘(しょうへい)して人民解放軍を訓練したことにも因っている。

追撃が一段落してから、1951年2月中国軍は再び攻勢に出て、初期の浸透には成功した。しかし、取り残された防御陣地を潰す際に、結局は歩兵による正面突撃、すなわち一般的な理解での「人海戦術」を採ることになり、機関銃等の重火器を備えていた国連軍の前に甚大な損害を蒙って(こうむって)失敗した[1]

中国軍の伝統的なドクトリンは、国土防衛に重点を置いており、兵力の優位はまず自国の防衛を利するものとしている。近年の軍備近代化は攻撃能力向上を目指しているが、それはもっぱら質の向上に基づくものである。

中国軍の戦略としての人海戦術[編集]

毛沢東が豪語したように、「人民の海に敵軍を埋葬する」ことが戦略としての人海戦術である。

そもそも漢字での「人海戦術」という一連の用語は、毛沢東の造語であるとの説もある。具体的には日本軍を点と線に封じ込め、その周囲を積極的な浸透工作によって獲得した敵性の住民の住む領域で包囲することである。こうした敵性の地域が広がれば、軍の遊撃、ゲリラ戦なども容易になり、追撃されても分散と逃亡も容易になる。このため、日中戦争第二次国共合作以降、まさに非対称戦争の様相を呈し始めた。

そういった意味でも、「戦術」ではなく「戦略」と捉えたほうが妥当かもしれない。現在でもこうした構想はまだ踏襲されており、人民公社単位で民兵を編制した体制を維持している。外国の攻撃があった場合、人民公社単位、村単位で民兵が抵抗し、正規軍が反撃を行うのである。

中国国民党側によって、中国共産党軍が平民を先頭として、国民党軍陣地につき出すことを人海戦術とも称す[2][3]

武力メモ 人海戦術についての概要

一般的な人海戦術の理解
戦争における一般的な人海戦術のイメージは、端的にいえば「こっちが10万発の弾丸を持っているのに、向こうは(何も考えずに)10万人以上の兵で突撃してきた。だから押し切られて負けた」という考えである。

この一見原始的な戦術は、朝鮮戦争における中国人民解放軍が運用した。

この「蛮族は数任せの正面突撃しかできない無能、だから蛮族」という偏見と過小評価は、古代ギリシャや古代中国以来の自称文明国の悪しき伝統でもあり、太平洋戦争当時の大日本帝国陸軍は(そして日本人そのものが)欧米諸国(特にアメリカ)からバンザイ突撃しかできない「黄色い猿」と見下されていた。そしてその日本も、中国国民党軍を数だけの弱兵と見下し、中国人そのものを劣等と見下していた(そもそも、少数の部隊が孤立してしまい、優勢な敵の攻撃を受けてしまうこと自体、先進国側の用兵にも問題がある)。

また百団大戦の各所でみられたように、堅固な陣地に対してひたすら海のように、兵隊が押し寄せる状態のことを人海戦術と捉える向きもある。

 

 

武力メモ イギリスの近接格闘術の歴史

イギリス海兵隊員だったフェアバーンは、上海自治警察に勤務するために1907年上海に渡る。上海滞在中、天皇日本武術を指導したと称するオカダなる日本人から真之神道流 柔術を学んだ。フェアバーン柔術修行の一環のとして講道館柔道も学び、二段位を受けた。また、中国皇帝の護衛兵を訓練指導していたと称する中国人から中国武術も学んだ。
さらに市街地戦や屋内戦に適した射撃術も編み出し、上海市警察内にSWATの原型ともいえる内容の部隊を編成した。

1940年に部下で格闘術の弟子でもあったエリック・サイクスを連れてイギリス本土に戻り、陸軍大尉となり、サイクスとともに特殊部隊、諜報機関、軍の一般部隊などで格闘術を含む近接戦闘戦術を指導した。その間に、より実戦的な「サイレント・キリング」(無音殺傷法)を編み出した。

上海自治警察時代にフェアバーンからディフェンドゥーを学んだダーモット・M・オニールはアメリカに渡り、ディフェンドゥーに独自の改良を加えた「オニール・システム」を、現在のグリーンベレーの源流である第1特殊任務部隊で指導した。

1942年アメリカ合衆国諜報機関OSSCIAの前身)の教官として招聘され、OSSで指導する。この時期に、フェアバーンの代表的な弟子で、のちに近接戦闘の世界的権威となったレックス・アップルゲート(当時、陸軍中尉、OSS教官)を指導した。

現在でも各国の軍隊では、「フェアバーン・システム」に他の格闘技武術の技を加えるなどの改良をした内容のものを軍用格闘術として採用していることが多い。