武力メモ 人海戦術について(事例)

第一次世界大戦[編集]

極僅かな機関銃陣地が、多数の歩兵の正面からの突撃を撃退できることは、第一次世界大戦で明らかになった。以後、上記の「一般的な人海戦術の理解」で描かれた戦術が成功した例はなく、撃破された例は多数ある。かわって、この大戦で編み出された歩兵浸透戦術が、以後の歩兵攻撃の常道になった。

中国軍の山岳浸透戦略[編集]

1950年11月朝鮮戦争に参加した中国の人民志願軍は、北朝鮮軍を追撃して北上する国連軍アメリカ軍主体)に対し、軽装備の歩兵を山岳丘陵地帯から迂回させる戦術を大規模に適用した。数日分の食糧を携えて山野を越える中国軍の機動は、道路輸送に完全に依存していた国連軍にとって予想外であり、戦略的奇襲となった。各所で側面や後方を脅かされたアメリカ軍は、自分たちが踏み込めない山野が中国兵で埋め尽くされていると感じ、敗走に移った。夜間行軍を伴う山岳機動を大規模に実施して成功したのは、第2次大戦後、中国大陸で武装解除した日本軍将校を招聘(しょうへい)して人民解放軍を訓練したことにも因っている。

追撃が一段落してから、1951年2月中国軍は再び攻勢に出て、初期の浸透には成功した。しかし、取り残された防御陣地を潰す際に、結局は歩兵による正面突撃、すなわち一般的な理解での「人海戦術」を採ることになり、機関銃等の重火器を備えていた国連軍の前に甚大な損害を蒙って(こうむって)失敗した[1]

中国軍の伝統的なドクトリンは、国土防衛に重点を置いており、兵力の優位はまず自国の防衛を利するものとしている。近年の軍備近代化は攻撃能力向上を目指しているが、それはもっぱら質の向上に基づくものである。

中国軍の戦略としての人海戦術[編集]

毛沢東が豪語したように、「人民の海に敵軍を埋葬する」ことが戦略としての人海戦術である。

そもそも漢字での「人海戦術」という一連の用語は、毛沢東の造語であるとの説もある。具体的には日本軍を点と線に封じ込め、その周囲を積極的な浸透工作によって獲得した敵性の住民の住む領域で包囲することである。こうした敵性の地域が広がれば、軍の遊撃、ゲリラ戦なども容易になり、追撃されても分散と逃亡も容易になる。このため、日中戦争第二次国共合作以降、まさに非対称戦争の様相を呈し始めた。

そういった意味でも、「戦術」ではなく「戦略」と捉えたほうが妥当かもしれない。現在でもこうした構想はまだ踏襲されており、人民公社単位で民兵を編制した体制を維持している。外国の攻撃があった場合、人民公社単位、村単位で民兵が抵抗し、正規軍が反撃を行うのである。

中国国民党側によって、中国共産党軍が平民を先頭として、国民党軍陣地につき出すことを人海戦術とも称す[2][3]