武力メモ 日本の白兵戦
中世-近世の日本では、歩兵として農閑期の農民を徴用していたため、武士に比べて白兵戦の戦果を期待できず、遠戦が主体だったという説がある[1][2]。しかし、実際には弓矢は鍛錬が必要な専門職であり、投石は限定的、鉄砲は高価であったため、正しいとは言い難い。当時は、ほとんどの兵は白兵戦に備えて刀などの白兵武器を携帯していた。
戊辰戦争後、明治になって四民平等の世になり、徴兵制によって武士階級以外の人員で軍隊が構成されるようになると、この傾向が強まったとされる。
西南戦争田原坂の戦いでは、白兵戦能力に秀でた西郷軍に対抗できなかった政府が、警視隊の中から選抜した「抜刀隊」(機動隊の先祖)を臨時編成し、投入した。この活躍は、維新後廃れていた剣術の再評価(警視流制定など)に繋がった。
日露戦争における旅順攻囲戦や奉天会戦で白兵戦に苦戦した日本軍[3]は、明治初期にフランスやプロイセンの操典を翻訳して作られた陸戦の綱領『歩兵操典』を、1909年に改訂した。この操典の綱領では「戦闘に最終の決を与えるのは銃剣突撃とす」としていた。
当時の欧州先進各国の陸軍も、敵軍殲滅のための包囲機会を形成するのに敵陣の突破が必要である以上、白兵突撃は必要不可欠であるとしていた[4]。これは、第一次世界大戦における砲の集中使用と機関銃の大量配備によって否定されたが、火戦の後、最終的に白兵戦で敵陣を殲滅するという考え方は残った。日本もこの状勢から、第一次大戦におけるドイツの浸透戦術を取り入れ、砲、機関銃による十分な攻撃の後の白兵突撃戦術を発展させ、その後の満洲事変、日中戦争において戦果をあげた。
大正-昭和初期にかけて、陸軍戸山学校は、複数の剣術家の助言を得ながら近代戦に適合する軍刀術を制定した(この軍刀術は、太平洋戦争後、戸山流居合道となった)。
日本軍の銃剣術は優秀で、兵士の練度も高く、太平洋戦争初期の自動小銃が広まっていない段階では米兵に対して優位に立ったが、米軍が反攻に転じたガダルカナル島の戦い以降は、火力に優れるアメリカ軍に対して白兵突撃はほぼ無力であった。補給の停滞で重火器の欠乏した南方戦線においては、敵に対して正面から強引に斬り込む夜間の白兵突撃しか抵抗手段がなく、部隊ごと壊滅するといった損害を被った。1942年以降、米軍にはM1ガーランドやトンプソン・サブマシンガン、BARが普及したのに対し、日本軍の小銃はボルトアクション式の三八式歩兵銃や九九式短小銃が中心で、短機関銃はおろか半自動銃さえ普及していなかったことも苦戦の原因となった。
戦後、自衛隊では、自衛隊格闘武器技術によって白兵戦への対応を行っている。64式小銃に装着する64式銃剣の全長が長い(41cm)のは、日本軍の三十年式銃剣(51cm)と、当時、陸上自衛隊で採用していた7.62mm小銃M1のM4銃剣の刃長の中間としたためで、現在の89式小銃の銃剣は標準的な長さ(27cm)となっている。